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【今日の考察】わくわくさん的アウラに溢れた造形性


シリーズ【今日の考察#1】


後藤てるみの日々考えるアートのあれこれをリアルタイムに考察するシリーズ【今日の考察】。その日とったメモを元に、その日のうちに、思考の順番を限りなく大事にして記述する。


初回の今日は【わくわくさん的アウラに溢れた造形性】(90年代の工作おじさん)について考察する。

これは手作業、技術性についての「アンチ」な考察であり、その真髄は「ちょっとぶきっちょな」「巧くてもオリジナル」なものである。わたしがアンチな立場をとっているわけではないが、デュシャン以降の現代美術において手技的な態度が幾度もアンチに晒されていた理由を今日は考察してみる。(絵画は死んだ論やシミュラークル、サブカルチャー、レディメイドのノンアウラなど)

一体なにが嫌厭されているのか、それは単に絵画だとか、彫刻だとか、ファインアートだとか形式的な話ではないように今日ばかりは考える。きっと、もっとメディウムに対してギトギトした油のような、いわば時間の成熟を伴った愛がない「あっさりしたもの」を追い求めているのではないか。それで、その成熟性をレディメイドによって失った代わりに、思想を添付している。

それは恐らく、レディメイド、非造形性(わくわくさん的アウラのない)という、ある「代替」にアウラを見出している姿なのではないか。(例:デュシャンの自転車の車輪、便器)

では代替とは何か。代替とは、自分では無い他者であり、つまり社会そのものである。

【❶ヒーリングな美術の立場】

では違う話になるが、「描かずには居られない」というアーティストが居たとする。このような傾向をヒーリングの美術とする。しかしそれは個人の勝手なわけで、限りなく個人そのものである。民主性が強化されているに過ぎず、これはみんな隠れてどんなことでもコッソリと何かを行い癒やされている。絵や彫刻などの捏ねくり回した造形性はそういった民主主義のためのツールにしかなっていない。アーティストや、このような一心不乱に捏ねくり回す性質に尊厳を与えているアートは、こうやって個人主義的なものへの憧れに利用され続けている。つまり、それでいえば何も絵でなくても良い。このような個人の満足のためにそれを美術とするなら、稚拙で傲慢すぎやしないか。だから何なのだろうか。

【❷美術のプロトタイプ・伝統という主張、立場】

レオナルド以降でも、遡ってポンペイ以降でも、どちらでも良いが、長らく続いてきた絵画史を継承した態度。(伝統への尊重に対しては、根拠は考察しないどころか、無根拠なものを回りくどく言い訳してしまう可能性がある。古典的な手法と主題での制作は立場が分かりやすいが、この主張での、もう一方で造形性を保っている多くのアートは、次の❸に代替できる。)

【❸イケてる造形の立場】

単に「造形が好き」という主張。❷の立場とハイブリッドなことが多い。絵や造形でしかできない表現、つまり「イケてる造形」という立場。では、イケてるとは何か。シュルレアリスム以降、視覚的なイリュージョンのアートへの投射は、制作者や鑑賞者を含めて一定の需要が続く。それは絵画でも、彫刻でも、インスタレーションでも、映像でも、視覚的に捉えられる世の中のアートの全てである。脳内の超現実的なビジョンの投影を唯一性と見做し、制作する態度である。しかし実際には、オリジナルな造形性も、代替としてのレディメイドにも、イケてる造形性・美学的な何か、が存在している。

次は、思想について考えてみる。造形的なアウラとしての、個人主義的なものでも・伝統的なものでも・超現実的な自動記述法でもない。そもそも芸術にアウラは在るが、上記では思想が欠如していることに気がつく。❶〜❸の造形に対しての各々の拘りや、芸術に対する確固たる意識は明確であっても、思想が無いか、弱い。図らずとも、ダダ的な作品の無秩序性にただ帰属しているだけではないか。もともとアートなんて、思想性はない。なんて言われたら、元も子もない。作家の眼差しだけで充分ではないか?なんて言われたら..。

そもそも思想とは何か。

レディメイドは単体ではアウラではなく、組み合わせることによってアウラが創出し始める。組み合わせの方法や数によって、アウラは倍々になる。しかし、鑑賞者は単なる唯一性だけを視るだろうか。倍々になったアウラを状態として認識した後、鑑賞者特有の視座である、思想というロマンを作品へ馳せている。しかも普段自分たちが目にする日用品や普遍的な題材ときたら、鑑賞者の個人的な経験を使って作品を視ることが可能なのである。つまりレディメイドとは、制作者(用意した者=アーティスト)ではなく、鑑賞者そのもののアウラであり、鑑賞者そのものの思想だ。先述の制作者がアートたらしめるアウラではなく、社会に向けられた、真に社会のためのアウラであり、真に鑑賞者にとっての民主的な思想のためのものとなる。

個人を排したレディメイドは、制作者にとっては無快楽の底、アッサンブラージュは残酷な民衆へのプロパガンダとも言える。どちらもあまり理想郷とは言えず、アートは互いに折衷へと時折切り出そうとする。

【レディメイド:思想・イデオロギー⇒代替物へ詰める】

【オリジナルな造形性:視覚のイリュージョン⇒アウラとする】

視覚はアウラになり得るか。そもそも上記の、オリジナルな造形性という視覚をアウラへと変換する作業を仮にしたとしても、「思想」という主張は、疑問符である。しかもこの隙間産業的なアウラを見出すことは、最大化された母数を有する21世紀の美術には益々困難を極める上に、アウラで勝負するのは危険どころか、開き直るしか無い。つまり「造形的な視覚はアウラになり得るか」という問いには、「ならない」または「少し違う」という答えになる。仮に現代的な主題をもって今日におけるアウラとはなったとしても、思想ではない。キャンバスや紙に、彫刻などの造形性に直接タイトルやその他の手法で言語を添付したとしても、手技的なエッセンス、染みのようなもの、身体的な動作のようなもの、作者のエラー、震え、汚れなどが強くなりすぎてしまい、それを作者のイデオロギーと呼ぶのも儚い気がする。これが近日の砂漠のモノリスのような所謂一般的で工業的な「長方形」などであれば、それが設置される文脈などでアウラが生じるかもしれない。工業性はレディメイドと近似していて、ジャッドの彫刻も同様だ。砂漠のモノリスにほとんどオリジナルな造形性は無い(ように一見思われる)。

(大変な軌跡のある21世紀までの美術をもってしても) 視覚がアウラとなった場合。

アウラとはなるが、思想ではない。

無作為な夢のようなものであるからだ。視覚は心像であり、認知科学的なものだ。脳内で作り出されたイメージである。我々は脳内で制作し、創出というアウトプットされたものを芸術作品の視覚として扱っている。

では、思想とは?

思想とは、感情であり、立場であり、情感であり、それは腹で決めている。造形的な視覚性はあくまでも脳で決めていて、私達は感情で筆のスピード、つまり筆運びが変化したとしても、乗っている車種が変わっただけのようなことで、目的地は一緒だ。憤りという腹が立ったことによって人は思想を持つ。気持ちなどの感情は心が司り、心は第一に臓器によって感覚を得る。思想とは腹であり、怒りを保った腹の持ち主である。(脳腸相関)

革新的に、政治的なメッセージを巧みにアートに孕ませるには、造形的な視覚性では難しい。アートにおける思想を取り込んだレディメイドの作者は、社会にたいして怒りやすい性質を持った者かもしれない。わくわくさん的アウラに溢れた造形性を持つ者は、すぐお腹を壊しやすく、政治的なイデオロギーはおろか、個人的な思想を作品へアウトプットするには、またお腹が痛くなってしまうのかもしれない。


(2020.12.14 最近気持ちがわかりみ)


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