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アートとは何か
今日のアートとは何でしょうか。アートの「意義」「価値」「教育」など、今日のアートを取り巻く情勢について述べていきます。
アートは私たちの身近な文化から、美術史の流れまで、幅広い射程で捉えられています。対して「創造」は自ら生み出されたもので、各々が吸収した文化をジャンルは問わず「アート的に振る舞うこと」を指します。この各々の振る舞いに「アートである/アートではない」を他者が振り分けることは、現代の多文化主義では違和感が生じますが、アート作品の可否とは別ベクトルで、アートには普遍的な定義が存在します。それが美術史上で「アートとされてきた」価値観です。その芸術観には、美しさや計り知れないものに対する美学(哲学)の領域も存在しています。
このアートの美学的な観点によりアートは西洋から出発して現代に至ります。統治への共通言語としてアートは各コミュニティへ政治利用されたり、また脱統治的な市民感覚としてアートが逆に市民によって現代も利用されています。
美術史の流れは芸術観を把握する上で非常に重要です。 「アートの是非問題」では、これらの芸術観が作品に引用や問題提起されたりしているかが重要な側面にもなります。美術史で培われた芸術観は、近代的で進歩的な見方とも取れますが、一方で多文化主義やインクルーシビティにも旧統制側の傲慢さも否めずジレンマが生じます。
アートとは何でしょうか。現代では「過去の歴史からの脱却を図る市民革命的な動き」ではなく、市民よりももっと極小単位の「個人」や「家族」、「一部のコミュニティ」が目立っています。芸術が多くの場所で浸透している反面、これまでの市民全体の思想的な運動から「小さな個人」へとSNSを中心に爆発的に消費が拡大しています。
消費が拡大している一方で、美学的な価値は、現代も美術館や評論などで問題提起されています。

「アートのメディア」後藤てるみ
美術作品の評価
アートというと、現代では多様なメディアが溢れています。従来の絵画・彫刻だけでなく、写真・映像・パフォーマンス・参加型などです。作品のテーマや、どこまでをアートとするのかも、映画・アニメーション・音楽・舞台・文学・ダンスなど、より広い領域や対象者へとひたすらに開かれています。
「アートを始めてみる」というと、自分はどこから始めればいいのか分からなくなるほどです。
戦後、ポップアートという、漫画や著名人・日用品の使用や版画などのコピー作品を通じて、アートは知識人・エリートから「大衆」へと一気に開かれました。写真や映像もアート作品として創られ、新たなメディアだけでなく「思想」まで、上下なく私たちの身近なところまでアートは開かれてきました。
しかし、中心がなく際限なく開かれた表現を、アートはどのように評価してきたでしょうか。
手近な紙に描かれた落書きのようなものも、作品として高く評価されることもあれば、そのほとんどはアートとして評価されません。評価されるアートには、ある一定の基準やルールのようなものが存在します。際限なく開かれているのは市井の「創造物」であって、美術史を刻んでいく作品は脱中心化されておらず、ある程度に明確な「批評」が存在しています。市井のすべての創造物を、これまでのアートの歴史的な観点から「すべてを包み込むように」高評価されているわけではない現実があります。
では、その批評の中心とはなんでしょうか。
それは美術教育です。
アートには「簡単に見えるような作品」「新たなメディアを使った作品」も、その美術作家が突発的に発表したわけではなく、美術作家の経験に即しています。その経験とは、美術教育の経験や、それに準ずる知識や経験です。ある一点の作品だけが評価されていくわけではなく、作品単体から「作家すべて」が批評されています。だからその作家がこれまでどのような作品を作ってきたか、それらの作品はどのような思想やコンセプトによって生み出されたか、それらの考え方は社会全体においてどのような関係性がありそれがどのように重要なのか、を評価されています。
このような考え方は、まずは美術史の観点によるものです。私はこれまでアートという語を用いてお話ししてきました。アートというと「広く多くの制作物」を示しますが、「美術」というと狭い世界のものを想起するでしょう。しかし意味は同じです。アートを、「アートヒストリー(美術史)を踏襲してから生み出された作品」と、美術を「美術史を踏襲してから生み出された作品」、どちらも同じ意味になるでしょう。問題は、どのような作品を作っていても、美術史の観点を現代にどう生かしているかです。
次に「制作物の強度」が問題になってきます。
美術教育
制作物の強度とは何でしょうか。
Art School
現代美術を考える上で、この拡張した、広義での「表現」の世界を俯瞰するには、これまで視覚芸術がどのような一途を辿ったのかを今一度おさらいすることと、現代の表現に関わる者たちが表象文化をどう捉えているのかの擦り合わせが必要だと思う。アカデミズムはある程度の規律を伴ったまま日々更新されるべきであり、歴史を辿り実践することと、現代への眼差しが交差するところに現代美術の存在があるだろう。作品が感覚的に作られたとしても、ある程度は「どうしてそれが必要か」を言葉にできるのが美術であり、逆にその言説に覆われた世界に美術が存在していることは非常に興味深いところでもある。美術史上の哲学的な考えや社会との表象的な相互関係とは距離を置いた作品は、広義の表現や芸術ではあるかもしれないが、一ジャンルとしての美術とは異なる。また歴史を再演するだけで、作品に現代に対する観点が反映されていなければそれは伝統であり、現代美術とはまた距離が置かれる。広い意味での芸術には無責任な多文化主義が残り、広く、広く開かれるだけで取り止めがなく、近代美術が培ってきた美学や理論の議論の続きができなくなってしまう。だからここでは、「現代美術」の限定的な立場、すなわち近代美術からの進歩的な系譜に則った意味での「現代」の語を用いて、アカデミズムの性質を維持した上で機能させていきたいと思う。
美術家 後藤てるみ
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