top of page

Art School 

Practices&  Aesthetics

絵画・他領域での実践

美術史・制作理論​

Director Terumi GOTO

毎週(木)(土)
AM10:00-12:30[制作枠]
PM13:00-15:30[講義枠]

●第1,3(日)
AM10:00-12:30[制作枠]

AM2時間デッサン体験
*材料費込み授業料3.000円
▶︎ kotte.art.design@gmail.com

アクセス 辻堂駅西改札より20分
神奈川県茅ヶ崎市小和田1-2-33

*赤い建物, 丸亀製麺近く

ART HISTORY

​美 術 史

[Creation=創造]は等しく人類に与えられた行為ですが、美術はこれまでの歴史で、世界情勢や技術進歩と相関しながら、キュビスムや抽象絵画など現象への概念転換をもって発展してきました。​現代ではマルチカルチュラリズムの観点により、脱西洋中心主義、ジェンダー、BLM、人権、アーティストのケア労働なども再考され、美術史は是正されはじめています。いま美術史を捉えることは、現代の制作や現代の活動的な視座によるものです。したがって、より現代の美術の目的に近い、20世紀初頭からのアートの動向と制作やコンセプトの美学を知ることから始めていきます。現代まで通して学んだら、古代へ戻り、根源的なアートの本質について探っていきます。そして中世、近世を経て、ふたたび、19世紀後半の印象主義と20世紀初頭の表現主義が出会い、講義修了となります。

​レジュメ概要

 ©️Terumi GOTO

各時代ごとの解説

​美術史

​デザイン史

​使用する教科書

「20世紀の美術」(美術出版社)

20世紀の美術

(Amazonリンク)

西洋美術史(美術出版社)

西洋​美術史

​(Amazonリンク)

​各時代ごとの観点

1905-1918 表現主義の幕開けと抽象絵画の発明

[アートの主な動き]各地での表現主義、キュビスム、オルフィスム、シュプレマティスム、ロシア構成主義、マルセル・デュシャン《泉》、デ・ステイル、ピュリスム

[デザインの主な動き]アール・ヌーヴォー、アールデコ、バウハウス

美術を理解するためには20世紀の美術を知ろう。現代の制作の感性の多くは、20世紀に由来しているからだ。19世紀までは宗教や権威のために美術作品の意義があり、個人や大衆が主体ではなかった。識字率が低かったために視覚優位の絵画や彫刻を利用して、美術は国威発揚の共通言語とされてきた。しかし近代以降、とくにフォーヴィスム以降から、わたしたち個人がつくり手で、大衆を鑑賞者とすることが前提の時代となる。荒々しい筆致、感覚的な色使いが始まるとすぐに、画期的な抽象表現も発明された。抽象的な概念を作品へ持ち込むことは、現代にとっても美術や音楽、文学を問わず芸術全体にとって必要不可欠である。しかし一方で、個人的な感覚に頼る絵画を「網膜的」とその視覚優位性を当時のデュシャンは批判する。デュシャンにとって美術はレディメイドを使用することで得られる公共性と、視覚ではない脳を主体とする運動だった。手技とはかけ離れた非技術的なレディメイドと言語の掛け合わせは、寓意性を生じさせるだけでなく、技術者のみによる絵描き集団から、より大衆へと近づく契機ともなった。このレディメイドの使用は、メディウムが大きく変質した美術史上、“デュシャン以前・以降”と分類されるほどだった。その後、20世紀末までの美術は、プロパガンダや資本主義を警戒しながら、自己充足的でもなく、公共的で、美術の文脈的な革新性を価値としながらも、あるひとつの終着点を迎えたように見えた。絵画や写真の終焉が囁かれつつも、単なるメディアそのものの死を指摘することは表層的である。美術史はメディアの更新でもありながら、それはひとつの結果に過ぎない。キュビスムや抽象、シュルレアリスムのような概念の発見のように、これまで当たり前だった考え方を捨て、いちど作家個人の感覚を研ぎ澄ませてみることも、新たな概念への着地の一歩となるだろう。

1916-1933 ダダとシュールレアリスム

[アートの主な動き]各地での表現主義、キュビスム、オルフィスム、シュプレマティスム、ロシア構成主義、マルセル・デュシャン《泉》、デ・ステイル、ピュリスム

[デザインの主な動き]アール・ヌーヴォー、アールデコ、バウハウス

1900~10年代までは、荒々しい筆致やダイナミックな色使いの表現主義から抽象表現を継承し、抽象表現は建築やデザインの分野へも波及しながら機械的で時代を越えたモダニズムを産んだ。抽象化によって一旦対象物の解体がなされると、20世紀初頭の芸術家は再度新たなアートシーンを作るべく、敢えて批判的で無秩序な芸術であるダダを創造した。ダダイズムは無意味と偶発を重要視し、積極的な意味においての芸術の破壊を目的とする。それは建築やデザインのように空間上で調和を育む分野とはとは全く交わることができない、芸術の計り知れない一面である。一括りに芸術とは多義な性質を持つが、そのなかでもダダイズムのように不調和で不明瞭、否定の連続やナンセンスの繰り返しは、時代ごとに発生する美しさへの否定とも直結する動きでもあった。現実の自立とは異なる非現実的な実践は、シュルレアリスムの動向とも結びつく。絵画や文学においてシュルレアリスムの自動記述という制作理論は発明であり、芸術の根幹である無秩序性と初期衝動を伴った無作為で支離滅裂な純粋芸術を可能とした。

1945-1950年代 ダダとシュールレアリスム

[アートの主な動き]アンフォルメル、アメリカ抽象表現主義、ミニマルアート

[デザインの主な動き]ミニマリズム住宅、ミッドセンチュリーデザイン

戦中に学者、建築家、芸術家など文化の担い手がこぞって移住したことで、元来の素朴なアメリカの芸術は劇的に変化し、戦後、芸術の都はパリからニューヨークへと移った。すでに抽象画は1900年代初頭にカンディンスキーやキュビスムを契機に確立されたが、つづいてアメリカでも、40年代にオートマティスムを軸にしながら抽象の概念は定着する。今日の芸術においてスタンダードとなった抽象表現は、私たちの芸術的思考やプロセスのひとつとなり、精神的で、つかみどころのない世界へ突入した。この時代の抽象表現主義やミニマル・アートは依然として現代も引用されるが、美術的認識とコンテクスト(文脈)を踏まえた上で今いちど〈つかみどころのない世界〉を捉えてみると、絵画や美術の発展という観点からは、現代ではこの発想だけでは飛躍に乏しいとも言える。内と外――美術は個人的な背景と社会的な視座を軸にしながら、作家はその活動に自己完結ではない言語的なメッセージを孕ませる。当時の抽象表現に湧く美術シーンとは対照的に、現代の「抽象的な」表現の目的は、生活やコミュニティへの同化である一面もまた注目したい。具体的なイメージを持つことへの怖さは、高度な言論社会からの反動として映る。

1950年代 芸術の市民革命、ポップアートの誕生

[アートの主な動き]スーパーリアリズム、ポップアート、ヌーヴォーレアリスム、資本主義リアリズム

[デザインの主な動き]テキスタイルデザイン、近代建築​、ルイスバラガン

1950年代イギリスから興りN.Yで流行したポップ・アートは、既製品や「既成の概念自体」を作品の要素として扱う表現様式である。日用品をはじめ、出版物や著名人などを「既製」として扱うほか、ホッパーなど「特定的な場所」を扱っていればポップ・アートとして解釈されることもある。また現代の制作においても、ポップ・アートの解釈は有効だ。印刷物や雑貨などの既製品の使用はもちろんのこと、規格サイズの絵画の支持体、写真/映像表現においての公共物・看板・人物に至るまで、常に「誰かが形成した視覚」に溢れている。今日のシミュレーションで氾濫した現代美術にも「オリジナルとはなにか」について、そのマテリアルであるレディメイドについて、一旦立ち止まり再考する必要がある。芸術に求めるアウラとは一体「どの部分」を指しているのか?例えばある固有の事象をモチーフとしたときに、ゴッホ《靴》(1886年)のように[固有の事象から固有の事象を差し引いて残るもの]に対して(参照:M.ハイデガー『芸術作品の根源』2008年,平凡社)、またはR.ラウシェンバーグ《モノグラム》(1963年)のように[固有の事象+何か(従来の描画材である絵具など)]を付加して、またはデュシャン《自転車の車輪》(1913年)のように[固有の事象✕固有の事象]によってなど、従来の造形物ではない既製的事象への作為によって、芸術作品の真理を問う。

1960年代 コンセプチュアル・アートと1960年代その1

[アートの主な動き]オプアート、キネティックアート、ジャンクアート、コンセプチュアルアート

[デザインの主な動き]アルヴァ・アアルト

今やコンセプチュアル・アート(概念芸術)は20世紀以降の新しい芸術の基盤となっている。デュシャンは1917年に新しい芸術の材料としてレディ・メイドを導入しただけでなく、コンセプチュアル(概念、観念)をも導入した。マレーヴィチを筆頭した「オブジェクトによって」自己や情念を最大限に抽象化したミニマリズムの仕草は、色や形、テクスチャーなどの「表面に」現れる様々な要素の排除と、観念の純粋化や絶対化だった。このミニマリズムはこの時代に勃興するコンセプチュアル・アートと似通う性質を持っていて、芸術はデュシャン以降、ポップアート以降の様々な材料形式の変化を経て「もう表面への思索は終わっていて、次なる本質の追求へ」と舵を切る時代に入っていたのだ。本来芸術とは、コンセプトそのものであり、表面や形式の新しさはあくまでも結果だという気づきである。森羅万象から本質を抽出する作業自体はコンセプチュアル・アート以前と何ら変わりはないが、一切の「芸術風な装い」を捨てた様相は、言語、ヴィデオ、写真などが多くを占めた。また、今日のいかなる芸術作品であっても、コンセプトの重要性は継承され、その手段である「言葉」は、事象への哲学や理論、作家のステートメント、キュレーションなど「言語的で概念的な態度」によって生かされ、作品の本質を知る上での、重要で基礎的な手がかりとされている。

1960年代 コンセプチュアル・アートと1960年代その2

[アートの主な動き]パフォーマンスアート、ヴィデオアート、ネオ・ダダ

[デザインの主な動き]ミッドセンチュリーデザイン

1960年代パフォーマティブなアートの流れが活発になり、ポップ・アートとともに近代洋画が主流だった国内のアートシーンも前衛的な芸術家たちの実験の場となった。今日の現代美術ではスタンダードなパフォーマンス、ハプニングといった偶発的な表現形式や要素も、この時期より始まったものである。日本では戦争の緊張から解き放たれ、新たに街を創造する姿はアグレッシブで期待に満ちていた。ベビーブームと共に東京一極集中が加速し、東京や郊外のベッドタウンでは建設ラッシュとなった。世界的過密都市・文化創造都市・経済中心地である「東京」はこのとき創られた。アートは東京にあり、アートは東京に依存する。団地は当時の戦後復興・再生の象徴で、万博やオリンピックの開催や月への一歩は、夢と希望へ社会が一体となった。モノやサービスが過剰供給される戦後は、奇抜で前衛的な土壌を醸成する一方で、環境破壊も加速した。それは環境問題を考え持続可能な社会に向かってデータ化されコンパクト化される現代とは非常に対照的である。60年代のセンセーショナルでブレーキのない人間の本質的な欲求は、参照やリバイバルをされやすい「熱い時代」であるのは間違いない。しかし社会が一斉に混沌に身を投じた時代から一気に時代が進んだ現代においての再実践は、すべての社会的な対象者へと繋がらず時代錯誤が生じる。つまり芸術とは時代が求める社会像に呼応し、当たり前にすべての人のものであるので「文化供給格差」の現代では、すべての人へ呼応が難しい。アナログとデジタルの嗜好格差・オタクと非オタクの格差など、経済や教育格差も背景に、あらゆる文化供給と没入への格差が生じている。

71970~80年代 美術館からの脱却

[アートの主な動き]サイトスペシフィックワーク

[デザインの主な動き]ポストモダン建築

70年代美術の流れは美術館の外へ向けられた。既存の美術館やギャラリーといったホワイトキューブからの解放を求めるようになり、アースワークや地域でのアートプロジェクトが活発になった。これまでの芸術の概念を覆そうとする動きは、いつの時代も盛んだったわけだが、70年代の美術の動向は脱美術館/脱ホワイトキューブという空間自体をいま一度捉え直そうとする動き方だった。当たり前のように既存の展示空間に作品を設置するのではなく、土地全体、環境全体へと目を向けた。1915年のタトリン「コーナーレリーフ」も展示空間自体に目を向けられたものではあるが、絵画、立体、彫刻、映像等に並ぶインスタレーションという表現形態は、この70年代頃からスタンダードになった。日本では現代美術館、国際的な現代美術展もまだなく、東京都現代美術館、森美術館など現代美術を専門で扱う機関は90年代後期に遅れて入ってきた。

1980~90年代 更なる技術革新と美術/社会派美術/新しさとは

[アートの主な動き]ポストモダン美術、ニューペインティング、ソーシャリティ・エンゲージド・アート、ポリティカル・アート

[デザインの主な動き]ポストモダン建築

現代美術とは何か。デュシャンから始まった現代美術の文脈を継承することも、現代に生きる私たちが制作して、発表/発信の意を持って完結させていくことも「現代美術」とされる。アートはどの時代も必然的に新しく、繰り返さないので、台に適当なモチーフと構図を組んでどこかの時代を意識して技術を競うことは、実習的な行為といえる。現代のアーティストは「なぜこのような表現をしているのか」という社会背景や美術史の文脈(美術史)=コンテクストを意識する。画一的な表現を好むアーティストは居ないだろうし、自分の周囲でどのような表現が生まれているのかリサーチをし、議論を重ねるだろう。そしてビックデータの時代で、わたしたちはどう生き、未来を創造するのか、アートはどうあるべきかを徹底的に悩んでいる。しかしマルチカルチュラリズムはそういった直線上の美術史に疑問を呈し、もっと多様な状態をもとめて今一度美術史を再編集している。国連の制定したSDGsのように、ダイバーシティ(多様性)によるあらゆる格差解消の社会化、サスティナビリティ(持続可能性)を重視した環境型社会育成など「善」への取り組みが活性化する反面、精神疾患・凶悪犯罪・子どもや青少年を取り巻く負の環境も加速して「タブー」や「狂気」も隣接しているからだ。今日、新たな社会道徳がアートへと応用されるには時差が伴ってしまうが、アートは現在、行き過ぎた多様性に警笛を鳴らしていくだろうか。

Copyright©︎Terumi Goto.All Rights Reserved.2026

bottom of page