現代美術がいつから始まったかは美術批評的立場や美術館やアートセンターなどの機関によって解釈が分かれるが、多くの美術機関と同様に、ここでも1917年のマルセル・デュシャン「泉」の発表後という見解を大枠にして、1910年代の前衛美術の動向を概ね現代美術と捉えていく。
「泉」のようなレディ・メイド=既製品の使用は「現代美術」である直接の原因と語られることが多い。しかしその視点では、美術史のアップデートは常に作品の本質性とは掛け離れた、表面的な作品の「メディウム」によってもたらされていると言える。ならば新しい美術の形態は如何に、と科学技術や物質的なテクノロジーを応用して昨今様々なアートが生まれているが(森美術館|未来と芸術展、宇宙と芸術展)、あの時デュシャンはここまでの飛躍の連続をアートとすることに違和感を感じていなかっただろうか。問題は社会へ移り、時事問題をはじめ環境問題や人権問題などサステナビリティやダイバーシティへ「問題」を持ち込むことを美術の含有性とし、そこにニューメディアで働きかけることで、数十年も、新しい美術のかたちを保ってきたように思える。
しかし、そもそも「問題」なんてあっただろうか。「美術的な問題」と「社会的な問題」は異なる。デュシャンは美術的な問題を美術の現場に持ち込んだ。絵画の現象的で視覚的な脆弱性を俯瞰し「美術的な面白さ」を他のメディウムを使って表現しようとした。そこには森羅万象への複合的な視点があり、他者にとってはまったく掴み所がない如何にも「美術的な」本質性を守り通した。ことにネットアートの登場は、物質性ではなく概念的にアートを捉えなおそうとする形式(形態)と捉えることができる。単に作品を媒介する形式を構造改造という新しさで図っているわけではなく、現代におけるネット・アートは美術史においてインスタレーションという形式が発達したことと同様に、もっとインフラ的な有意義性がある。サイバー空間という、美術館やかつてのアート空間である場所や時間の座標から開放されただけでなく、「不特定な時間と場所」が幾つも幾つも、ネット空間を保有する者とそれを欲する者の数だけ拡張する。(それを展示空間と呼ぶか、作家と呼ぶかについての議論は今後益々されていだろう)
芸術においてはレディ・メイドだけでなく、実空間の把握を絵画に置き換えたキュビスム、思考自体や事物の裏側へ目を向けたコンセプチュアル・アート、結果物としての作品ではなくプロセスとしての時間的流れも含めたパフォーマンス・アート、通常の展示規模を広域へ拡張したアースワークなど、次元的な改変はアートの歴史上何度か行われてきた。まだ当たり前に美術が権威のものばかりだった近世で、ラス・メニーナス(ベラスケス)は、美術作品というものの意味や定義の把握を絵の外側である鑑賞者へとスライドさせ、それは美術の次元的改変の初期段階だったと言え、アートは本質的にこの頃から始まったとも捉えられる。
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