​絵画の美術的立場わたし(後藤てるみ)はペインティングをしている。しかし正直な話をすると、絵画と美術の関係性を考えるとき「既に絵画は死んでしまっている」ことを抜きには話せなくなっている。「純粋な」絵画が一旦死んでから100年も経ってしまい、前置きをしながら美術の場では絵画を語り、現代では絵画を美術とわざわざ謳うには難易度が高い。20世紀以降増幅された表現形態の領域は「絵で出来ること」の多くを飲み込んでしまい、表現主義以降、ミニマリズムも含めて反復される絵画表現にはいい加減飽き飽きとすることも多くなった。油絵を始めとする絵画表現には数十種類の技法・構成的表現が存在するが、それらを使いこなし終えたとき月並みの表現しか自分に残存しないことに落胆する。新鮮だったはずの数々の絵画技法・構成の幅もすでに美術史上どこかで行われている。作家は絵具のプラクティスを終え、新鮮さを失うと絵画表現から脱する。それ以上に新しい絵画表現を追い求め続けることはしんどいのだろう、残念ながら誰も居ない。(=死んだ、と同様である,私やあなたの絵画は死んでいるのか?) 強いていえば、時代とともに必然的に新しくなるシュルレアリスムを如何に図像学的に実行するかぐらいだろうか? キュビスムほどの次元的な改変を狙うには、森羅万象に対する好奇心が欠かせないといったところだが、純粋に絵具と支持体という約二次元の世界に挑むことをもしも忘れてしまったら、また非絵画形式へと踏み込んでいくに過ぎない。秘密のない絵画現代絵画が既存の美術史を踏まえて語られず、皆一様に「描いている」ことへの肯定を始めた。もはや絵画自体を概念的に捉えなおそうとする展覧会も欠如したし、これでは絵画が死んだことへの諦めと、クラシックバレエのように伝統的な存在のままで良い、という単なる幼稚な肯定に過ぎない。美術史のターニングポイントである1917年のマルセル・デュシャン「泉」(既製品の男性用小便器を作品に用い発表)により、これまで単に、壁に二次元の平面が従属していただけの絵画が放棄された。作家の手技の象徴でもある絵具に別れを告げ、何の手技でもない便器という既製品に美術の概念を追加したことで、後の作家の方法論に影響を与えつづけた。続いて、ウラジーミル・タトリンの彫刻作品「コーナーレリーフ」(通常は彫刻作品というと地面=床面に接しているが、コーナーレリーフは地面から開放され宙に浮いている――これにはカジミール・マレーヴィチのコーナーに設置した「黒の正方形」という絵画が直接関係している)により、表現方法が絵画である必要性がなくなった。まだキュビスムやカンディンスキーによって抽象表現が確立されたばかり、モーリス・ルイスのような絵具の現象性はないにしても、マレーヴィチによってミニマリズムも成立していたので、タトリンのような今で言うインスタレーションは新鮮な熱狂性を帯びただろう。(もうその時代には戻れない) また戦後、ナム・ジュン・パイクらヴィデオアート・ヨーゼフ・ボイスオノ・ヨーコらのパフォーマンスの登場により、美術は絵画との距離を更に大きく取ることにした。現代、日本においても国際展(ヨコハマトリエンナーレ、あいちトリエンナーレ)では絵画作品は稀有で、美術史で絵画が終焉を迎えようとしている時に「わざわざ絵画を選ぶ必然性や意義」について少なくとも語ろうとしなければならないことは事実だ。しかし、ゲルハルト・リヒターデイヴィッド・ホックニー国立近代美術館で個展をしているピーター・ドイグなど、現代でもペインティングを続けアート界を牽引しつづけているアーティストがいるが、それを絵画のクラシック性と捉える以外になかなか方法が無い。無論リヒターやホックニーは活動は様々だが、リヒターにしろホックニーにしろ、技術(構成力も含まれる)が最大の武器で、新しい絵画の観点へ到達できなかった。やはり絵画はとっくに終焉を迎えているのだろう。これは、絵画は絶対に必要なのだ、とか絵画でなくても良い、などそういった形式的で表層的な話だけではなく、そもそも芸術的な概念とは何かをインスピレーションから立ち返れば良い。それはいかにも掴み所のない話であるもの――つまり考え方、思考のプロセスとしての「哲学」が芸術において非常に重要な位置を占めている。ゆえに既に双方で起こっている事実として「現に絵を描いている」または「現に絵を描いていない」についての行動原理を探れば、忘れ去られた現代美術の形式論の通過点になり得る。歴史的に見ると、絵画の是非に対してこれまであらゆる見解がなされてきたが、双方で必死に抵抗する必要はないし、抵抗ではなく実存的に絵は描いているのだから、各々が絵画の美術的立場について考えることをやめさえしなければ、絵画の美術的立場は今よりも明晰になる。言及しないのではなく、そのメディウム――材料や絵画という物質を扱うこと・その素材への多幸感について・絵の具という流動的な物質の現象的かつイリュージョンの定着を施す「行為―行動―運動」について、多次元的に「絵画の美術的立場」を発生源の分析と理論によって解体する面白さが美術にはある。

​現代美術の新しい領域現代美術がいつから始まったかは美術批評的立場や美術館やアートセンターなどの機関によって解釈が分かれる。ここでは、共有率の高い1917年のマルセル・デュシャン「泉」の発表後という見解を大枠にしながら、1910年代の前衛美術の動向を概ね現代美術と捉えている。「泉」のようなレディ・メイド=既製品の使用は「現代美術」である直接の原因と語られることが多い。しかしその視点では、美術史のアップデートは常に作品の本質性とは掛け離れた、表面的な作品の「メディウム」によってもたらされていると言える。ならば新しい美術の形態は如何に、と科学技術や物質的なテクノロジーを応用して昨今様々なアートが生まれているが(森美術館|未来と芸術展宇宙と芸術展)、あの時デュシャンはここまでの飛躍の連続をアートとすることに違和感を感じていなかっただろうか。問題は社会へ移り、時事問題をはじめ環境問題や人権問題などサステナビリティやダイバーシティへ「問題」を持ち込むことを美術の含有性とし、そこにニューメディアで働きかけることで、数十年も、新しい美術のかたちを保ってきたように思える。しかしそもそも「問題」なんてあっただろうか。「美術的な問題」と「社会的な問題」は異なる。デュシャンは美術的な問題を美術の現場に持ち込んだ。絵画の現象的で視覚的な脆弱性を俯瞰し「美術的な面白さ」を他のメディウムを使って表現しようとした。そこには森羅万象への複合的な視点があり、他者にとってはまったく掴み所がない如何にも「美術的な」本質性を守り通した。ことにネットアートの登場は、物質性ではなく概念的にアートを捉えなおそうとする形式(形態)と捉えることができる。単に作品を媒介する形式を構造改造という新しさで図っているわけではなく、現代におけるネット・アートは美術史においてインスタレーションという形式が発達したことと同様に、もっとインフラ的な有意義性がある。サイバー空間という、美術館やかつてのアート空間である場所や時間の座標から開放されただけでなく、「不特定な時間と場所」が幾つも幾つも、ネット空間を保有する者とそれを欲する者の数だけ拡張する。(それを展示空間と呼ぶか、作家と呼ぶかについての議論は今後益々されていだろう)芸術においてはレディ・メイドだけでなく、実空間の把握を絵画に置き換えたキュビスム、思考自体や事物の裏側へ目を向けたコンセプチュアル・アート、結果物としての作品ではなくプロセスとしての時間的流れも含めたパフォーマンス・アート、通常の展示規模を広域へ拡張したアースワークなど、次元的な改変はアートの歴史上何度か行われてきた。まだ当たり前に美術が権威のものばかりだった近世で、ラス・メニーナス(ベラスケス)は、美術作品というものの意味や定義の把握を絵の外側である鑑賞者へとスライドさせ、それは美術の次元的改変の初期段階だったと言え、アートは本質的にこの頃から始まったとも捉えられる。

#111ART @kotte.Kagawa
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[Photo by Akihito Abe]

ARUGA SHINGO / Blind Tactile Sense
ARUGA SHINGO / Blind Tactile Sense

[#KYODO-CHOKOKU] Tomohiro Nagahata
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[#KYODO-CHOKOKU]directed by Tomohiro NAGAHATA

#111ART @kotte.Kagawa
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[Photo by Akihito Abe]

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●hanapusaTVにて2020年1月11日の

特別授業の様子が公開されました。

 #111アート

2020年1月11日に特別授業を行いました。登壇者は花房太一(美術批評)、有賀慎吾(アーティスト)、武内竜一(映像プロデューサー・アートコレクター)・永畑智大(彫刻漫画家)です。#111アートは授業でもあり、#共同彫刻 という興りでもあり、フラットなアート会議の場でもあります。二日間、たくさんの方にご来場いただき、心より感謝しています。また新しい芸術の運動に向けて、みなさんとたのしい時間を共有したいと思います。(後藤てるみ)