top of page
About
ART IS EVERYTHING.
“KOTTE” IS REPRESENTATIONAL OF ART.
はじめまして。kotteの後藤てるみです。コッテは2013年に神奈川県茅ヶ崎市にて開校したアートスクールで、「kotte(コッテ)」は松ぼっくりという意味で、スウェーデン語に起源があります。アートは、森羅万象――すべてを取り扱い、kotteは美術特有の何かではなく、一歩外に出た表象としてのアートの意味があります。2008年にスウェーデンでホームステイをしていたときに、湖の景色や、馬の世話をしながら、チーズケーキを食べながら、鳥が一斉に飛び立つ光景を車窓から目にし、
「アートは“すべて”だ」。
そう思いました。
kotteでは、絵画をスタートに、現代美術やその他の分野へ、受講生自身が関心のある活動へと幅広く活動しています。自由制作をはじめ、絵画技法制作や美術講義、デザイン分野でのディスカッションなどから美術の基礎実習を行い(アート教養課程)、美術にまつわる、より多くの要素を考える取り組みをしています。本来美術とは、科学、宗教、哲学、建築、デザイン、社会学、政治など美術の外の分野へ、作品だけでなく作品を生み出す人間本来の意思があり、作品はその結果物でしかありません。だから美術のために日々美術的な実践を繰り返していたら、それは美術史の引用の連続に過ぎません。美術は本来、あなたのそばにあるものです。あなたの見た景色、それが美術です。
ところが美術も業界特有の異質さがあり、わたしは約10年の間、作家活動を休止していました。活動歴にもポッカリと穴が空いてしまっています。その間、kotteを立ち上げ、美術の業界ではなく、美術のスタートを切るお手伝いをしてきました。それにはこんな理由があります。
私が美術大学在籍中のころ、ゼロ年代のアートは非常に活気に満ち溢れていました。ちょうどSNS時代直前の数年間でした。わたしたち学生も、まだ駆け出したばかりの作家活動をスタートしたところで、学科の講義以外の時間は、日夜アートについて議論をしたり、変なイベントを開いたり、みんなで一緒にアートギャラリー、美術館、当時より活発化したアートプロジェクトの展覧会などに赴いたりしていました。アートプロジェクトは、横浜トリエンナーレ、越後妻有、直島、桐生と、地域興しというより国際展としての役割を国内でも全うしよういう意思を徐々に感じはじめていました。(「ビエンナーレの現在」暮沢剛巳/難波祐子編著,2008年,青弓社)みんな、同級生も先輩も美術活動として出来ることは何でもやっていた記憶があります。学校でギャラリーを開いている先輩、夜に友達とパスタ屋を出したり、運動会をしたり。できることは何でも。面白いことなら何でも。
しかし、美術大学やアートの業界の「奇妙な違和感」を覚え、作家活動を休止しました。今想うと愛おしくかけがえのないアート生活でしたが、作家以外の、美術の「外へ」活動のインスピレーションを求めるようになりました。その頃に生活や住環境、建築などに興味を持ち始めて起ち上げたのがkotteです。
現代のSNS時代では、その「奇妙さ」を言葉にして発信し、問題提議として美術だけではない広い社会に向けて発信し改善していく余地があります。しかし2009年に大学卒業を迎えるころまで、まだtwitterをはじめとしたSNSも今ほど機能しておらず、実際にはハラスメントが横行し、学生は泣き寝入りを余儀なくされていました。どんなに時代を遡っても、人権は変わりません。社会的認知が乏しいなかで我慢を強いられ、騙し騙し活動していても、傷ついていることには変わりません。わたしも昭和生まれで、根性論、精神論から受験期を過ごしていた記憶があります。予備校での指導も、厳しい指導の日々でしたが、大学へ入学してからの教授からのパワハラ、女性軽視、ホモソーシャルな環境は気持ちが悪く、卒業と同時に逃げ出してしまいました。女性もまた客体としての女性像を自ら求めるようになり、属性としての女性が先立った作品も本当に無理でした。本質的に美術に対して、アートに対してやっていこうと森羅万象についての議論は無い。矮小化された世界、それが美術業界。SNS時代現代に、改めてこうして言葉にしていくことができました。
作家活動を2020年より再開し、
2013年より開設されたkotteでは、アートのメカニズムのひとつであるアカデミズムを21世紀に再構成していく。現代の美術の再構成は、共通言語である美術史や美術の理論への再考を基準として、同時代のアートに関わる人達が集まって何かしらのアクションを起こすという点にある。アートはその性質上、アートを取り巻く関係する人たちすべて、アートをつくる上で欠かせないインスピレーションとしてのフィールドワーク、経験すべて、ナショナリティ、美術史を現代のサブカルチャーやSNS、ダイバーシティを観点に再考することや、自身の絵画制作経験から絵画理論を分析し、自身の制作では知覚をする。kotteはアカデミズムの第一段階を外との連携において強化する。美術教育は既存の難易で高尚なアカデミズムから不可避であり、アウトサイドにおいて美術を羨望する者たちからは隔絶された世界に存在する。わたしはその隔絶のない、難易で高尚なアカデミズムを、自らの手でひとつひとつ伝えている。美術の入口の第一段階として、kotteは年齢や経験は問わず、しかし難易な性質を崩すこなく伝えるようにしている。もともと美術は哲学や社会情勢から連動して起こる運動のようなもので、哲学に関しては「もの」の視座やそのものが存在に至っている理由を考察する分野である。それはアートにおいて対象がなぜ存在するか、対象の裏の性質やキュビスムのようにそこに備わっている性質すべてを網羅し表象化していくことに長けている分野だから難しいのも仕方ない。問題は、難しくしないで簡単に伝えてしまっているワークショップなどである。ハイコンテクストであるから高尚な性質を背負っているわけで、簡易的な側面だけを切り取ったワークショップはアートの上澄みだけを掬った本質のない空虚で無駄なやりとりである。哲学はこどもにとって、難しいことを嫌う者にとっても、非常に面白い発想を与えてくれる。ある対象を物理的な角度からだけではなく、対象の本質や対象の発祥の地まで遡っていくと、対象はこれまで見ていた対象とは異なり、非常に豊かな観点を自身に多く含ませてくれる。こういった、対象という例題を経て、わたしたちは社会経験においてたくさんの考え方を学び、あらゆるバックグラウンドや年齢の立場になって考えることができるようになる。分断のない、平和な社会を目指して、アートでできることをもっと熟考した方が良いと考える。
bottom of page